本門佛立宗とは
本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は高祖日蓮聖人を祖師と仰ぐ、法華経本門八品の御題目「南無妙法蓮華経」をお唱えする歴史ある宗旨です。
したがって約750年もの昔より、多くの人々をお救いしてきた歴史ある宗旨であり、現在世間を騒がす新・新興宗教とは全く異なります。一般には「ほんもんさん」や「ぶつりゅうしゅう」と呼ばれ親しまれています。
そして本門佛立宗では「こんにちは」や「さようなら」の挨拶の代わりに「ありがとうございます」と言います。このありがたい信心に出会えたことや、多くの人のおかげで生きているという感謝の心を忘れないよう「ありがとうございます」と挨拶するのです。
教えの流れ
世間一般では仏様の教えは『仏教』と言われていますが、この『仏教』には仏様の時代の教えと今の時代の教えの二つに分かれます。
仏様は、末法と呼ばれる現在の我々に必要な教えとして【法華経本門八品の御題目】を上行菩薩に託されました。そして上行菩薩の生まれ変わりである高祖日蓮聖人が、数々の御法難を乗り越え、我々のためにその教えをお弘めになりました。しかし、高祖日蓮聖人が亡くなられた後、100年以上の年月が経つに連れ教えが間違えた解釈をされ、仏様が教えてくださったものとはかけ離れたものになってきたのです。
そこで、門祖日隆聖人というお方が高祖日蓮聖人の教えを正しい流れにもどし再興され、法華経本門八品の教えを明確にされたのです。
しかし、また500年程の年月の間に間違った解釈になってしまったのです。
そして本門佛立宗の開祖である開導日扇聖人というお方が、高祖日蓮聖人・門祖日隆聖人のご本意を、より私達にわかりやすいように伝え、
仏様がその昔法華経中にお悟りになられた末法我々の為の成仏の教えである 「本門八品所顕上行所伝の南無妙法蓮華経」をたくさんお唱えする宗旨を立てられました。
宗名の由来
「名は体を表す」と言いますように、本門佛立宗はその名の通り「佛様が自ら立てられた宗」であります。御祖師様は「佛立宗とは釈迦所立の宗なる故也」と明らかに御宣言なされておられます。
どんなことをしているの?
「上行所伝のお題目」をご本尊としておまつりし、信心修行の基本としてお題目を口唱しています。
お題目は仏様のお悟りの究極の言葉であり、あらゆる仏様の、すべての功徳が収められている慈悲の相対です。そのお題目をご本尊として、それに向かって「南無妙法蓮華経」と唱え重ねる修行を「お看経(おかんき)」と言います。
高祖日蓮聖人
今から約750年前、高祖日蓮聖人は確かに存在し、清澄山で立教開宗をされ、その教えが今も私達に伝えられているのです。 高祖日蓮聖人の御奉公を略年表にまとめてみました。
1222年(貞応元年) 二月十六日 安房国長狭郡東条郷市河小湊に御聖誕 御父・貫名重忠、御母・梅菊、幼名・善日麿 |
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1233年(天福元年) 12歳 五月 房州随一の名刹千光山清澄山に入寺、御名を薬王麿と改められる |
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1237年(嘉貞三年) 16歳 十月八日 清澄寺住職・道善房を師として出家得度、僧名を是聖坊蓮長と号す |
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1238年(歴仁元年) 17歳 鎌倉遊学の旅に出られる |
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1242年(仁治三年) 21歳 四年間の鎌倉遊学を経て清澄山に戻られる 比叡山、南都等へ遊学の旅に出られる |
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1253年(建長五年) 32歳 比叡山より故郷・小湊に帰省四月二八日 清澄山にて立教開宗
御父は妙日、御母は妙蓮、僧名を日蓮と改められる |
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1260年(文応元年) 39歳 七月十六日 「立正安国論」を著し、宿屋光則を経由して時の実力者・北条時頼に呈される 八月二七日 大勢の念仏者により松葉ヶ谷の草案が焼き討ちにあう 春 松場ヶ谷の草案に戻られる |
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1261年(弘長元年) 40歳 五月十二日 四ヶ度の大難 《伊豆御流罪》
◎伊豆の沖合の爼岩に置き去りにされるが、漁師の船守弥三郎によって助けられる 二月二十二日 赦免状が到着し、鎌倉へ帰られる |
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1263年(弘長三年) 42歳 秋 故郷・小湊に戻られる |
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1264年(文永元年) 43歳 十一月十一日 四ヶ度の大難 《小松原の御法難》
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1267年(文永四年) 46歳 十月十一日 十一通の諌曉書「十一通御書」を著し、時の為政者や宗教者達に発せられる |
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1268年(文永五年) 47歳 | ||||
1271年(文永八年) 50歳 六月十八日 稲村ヶ浮フ雨乞い
十一月一日 塚原三昧堂に到着される |
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1272年(文永九年) 51歳 二月 塚原にて「開目抄」を御撰述 |
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1273年(文永十年) 52歳 四月二十五日 一の谷において「勧心本尊抄」を御撰述 五月 「如説修行抄」を御撰述 |
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1274年(文永十一年) 53歳 二月十四日 佐渡御流罪御赦免
五月十七日 身延御入山十一月 蒙古来襲 |
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1276年(建治二年) 55歳 三月十六日 恩師・道善房が帰寂される「四信五品抄」を御撰述 |
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1277年(建治三年) 56歳 六月十六日 「小蒙古御書」を著して廻状を門人達に送る |
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1281年(弘安四年) 60歳 九月八日 身延下山
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1282年(弘安五年) 61歳 九月十七日 池上宗仲邸到着 十月十三日 辰の刻 御入滅 |
門祖日隆聖人
門祖日隆聖人は至徳2年(1385年)10月14日にご誕生遊ばされ、幼名を「長一丸」と称されました。
応永3年(1396年)5月10日、富山県浅井の遠成寺で慶寿院日深師の許に得度、僧名を深円と頂かれました。
応永9年(1402年)上洛し、妙本寺(妙顕寺)貫首日斎聖人のお弟子となり、慶林坊日立と名を改め本格的に就学に精進なされたのです。
貫首日斎聖人のご遷化のあと、貫首となった月明の謗法を正すべく、日存、日道の両師と共に諫められました。
しかし、一度は悔い改めた月明も永続きせず、逆に権力を背景に存道隆三師を追い払い、刺客6人を差し向けられる怨嫉をお受けになりました。
この御法難の中、日隆聖人の威風に襲いかかろうとした刺客も結局は手を出せず、この6名は教化なされて、途中にお立ち寄りになった三井村では火伏の現証で一村を教化し、本厳寺を建立(現・寝屋川市美井元町)なされました。
御弘通の教線は関西、中国、四国、東北地方におよび、14ヶ寺を建立。三千余帖のご著述、幾多の法難を越えて、高祖日蓮大士の清き流れにかえ環さんとの思い一筋に御弘通をなされました。
門祖日隆大聖人は、観心本尊抄、開目抄、報恩抄、法華取要抄など、いずれも日蓮大士の御真跡の確実なる御遺文を引用され、本門八品本因下種を骨子として、清純性のある正当な教学に努められておられます。
終始、高祖日蓮大士の御本意を貫き、臨終の際には唱死のお姿を示され、寛政5年(1464年)に寂光に帰されました。
私たちは日蓮大士の清き流れをそのままにお伝え、お残し下された偉業に随喜させていただいております。
開導日扇聖人
幕末維新に懸けて法華経本門八品の教えに帰依し、弘通折伏の一筋に新しい人生を見出した。そして、幾多の御法難にも屈せず、蓮隆両祖の正統を貫かれ、仏立講を開講なされた。 時は幕末期、文化十四年(1817年)4月1日 京都でご誕生、幼名を仙二郎と命名。 幼少より漢学を学ばれ、書画をはじめ、国学・和歌等を就学、平安人物誌にもその名を連ね、その才覚を発揮なされ一八四二年には千種殿で「源氏物語」を講ぜられた。 このころより仏道に志し、各宗を遊学なされる。
1845年(弘化二年) 本能寺塔中の院主日雄師の教化により法華経本門の教えに帰依をなされ、本能寺第四十五世貫主、日肇上人より修学をとられ、出家の志を起こされる |
1848年(嘉永元年) 日扇聖人は三十二才をお迎えになられ、より教学を進めんと淡路隆泉寺の日耀上人に師事し、同年一月二十四日 日肇上人を講主に本門八品講を発起なされる。 同年四月二十八日 日耀上人の許で得度なされ、無貪と称される |
1852年(嘉永五年) 京都東山西行庵に住し、聞法来訪者が増える |
1856年(安政三年) 八月 高松藩・松平頼該公が日扇上人を師と仰ぎ高松に招く |
1857年(安政四年) 一月十二日 京都の谷川浅七宅で【本門仏立講】を開講 |
1859年(安政六年) 大津仏立講を開講 |
1862年(文久二年) 大津法華堂開堂式を挙行、初の宗教施設が現実となる |
1865年(慶応元年) 今大路法橋清風と称される |
1868年(明治元年) 大津六十四ヶ寺より怨嫉を受け、訴えにより入牢されるが、無罪放免出家を公許される |
1874年(明治 7年) 戸籍令に従い、姓を長松、名を清風と改められる |
1878年(明治11年) 【妙講一座】を制定し、全国講中に配布される 本門仏立講の隆盛は目覚しく、その反面では風評も大きく幾多の法難を受けることとなる。その中で厳格な御講に徹せられ、大改良を実施なさいました。折りしも明治十七年には十七組が脱退する。しかし明治二十年には十七組の代表が懺悔し復帰、より一層の興隆となる |
1889年(明治22年) 秦新蔵宅を玉江親会場とし大阪大歓組を結成する |
1890年(明治23年) 七月十七日 秦新蔵宅へ下阪途中、避暑のため守口村の森田伊六の奥座敷をにてご休息、夕刻出発のためお声をかけるが返事がなくお床に伏され御遷化をお迎えになる 如来のお使いとして臨終の際まで御奉公に徹して化を寂光へとお移しになられました後にその地を買収し御遷化地道場を建立する 当山義天寺の草創となる御遷化の居間を義天閣と称し現存に到る |
義天寺とは
義天寺は、本門佛立宗を興された佛立開導日扇聖人が御入滅なされた場所に建っています。
題目の行者開導日扇聖人御因縁の地であり、それゆえ本門佛立宗の「由緒寺院」とされています。
開導聖人が御入滅なされた元森田伊六(大伊)氏のご自宅を買収して建立されました。
起源と沿革
此の地に於いて日聞上人の御導師にて佛立開導日扇聖人の御一周御忌(明治二十四年)と御三回御忌(明治二十五年)とを御奉修になられ、ついで明治二十九年の御忌のときには「宥清寺出張説教所」として日聞上人が道場を建立せられて御奉修。その年の十一月には教会所の認可を受け、最初の御担任として日聞上人がご就任されたのであります。
明治四十四年八月、日聞上人御遷化後、明治四十五年七月に当山第二世日雲上人が後任の担当となられました。当初、日雲上人は毎月京都より出張されていたのですが、大正七年当道場へ移居常在されたのです。そして教会所の名称を「守口教会所」と改称し、通称「守口道場」と言うに至りました。
昭和八年、開導日扇聖人御入滅の御座敷を永世に記念保存しようと、当山第二世日雲上人が念願され、名も「義天閣」と付けられて、今日その御入滅の御座敷が現存しているのです。
昭和二十一年寺号公称して「鶴林山義天寺」と称しました。
義天寺の前の通りは「文禄堤」と呼ばれる、旧街道となっています。
文禄堤とは、豊臣秀吉が文禄五年二月(1596年)毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三氏に命じて、伏見城と大阪城を結ぶ通路として修築させられたもので淀川左岸に沿って造ったものです。この堤は国道の陸路として役にたっていました。昔は義天寺の北側あたりに淀川の本流が流れていました。この淀川は守口あたりでかなり蛇行し、今の淀川と義天寺の間に狼島(面積が7ヘクタールもあったとのこと)と葭島の南側の岸がありました。今も義天寺には、船をつなぎ止めたと言われる楠の木の跡が北側にあります。「守口」という地名は、室町時代に初めて現れたと言われています。(河内国茨田群十七ヶ所下之仁和寺庄守口村という記録がありました)
また「森口」と言われていた記録もあります。付近には森に関係のある地名が多く、当地が農耕地として発展する以前は、このあたりは森林が生い茂っていたとのことです。その森のある入口で「森口」と言ったのではないかと考えられています。元禄七年(1694年)に守口町と公称されました。
お寺の現存する本町あたりは、文禄堤があった所なので、古くは「堤の町」と言われていたこともあったようです。