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回向(えこう)

回向には三種類あります。
 1.自分の行った善を他の人の利のために差し向ける「衆生回向(しゅじょうえこう)」
 2.死者が成仏するために我が善行を差し向ける「菩提回向」
 3.真実の法を求めるために我が善根を平等不変の真理に差し向ける「実際回向」
と分別しています。

生きている人に回向?と驚かれるかも知れませんが、本来「回向」とは中国で「回転趣向」といっていた言葉を略して「回向」というようになったのです。これは自分が汗を流し、努力して作った事物を人の役に立つように振り向けること、という意味があります。
この言葉はインドのサンスクリット語のパリナーマナー(Parinamana)を中国語に訳したものです。この言葉はパリ・ナム(Parinam)という動詞で、変える、向く、結果を得るなどの意味から派生したもので、自分の積んだ善根を亡き人のためにお題目やお経や布施供養の功徳を巡らして仏道に向かわせることを「回向」と言うようになったのです。この意味が一般に普及し、誰もが知っている言葉となったのですが、この言葉の本来の意味から考えれば「生きている人の回向」は別に驚くことではありません。

年忌(ねんき)

本門佛立宗では「常盆常彼岸」といい、『ご先祖様の回向供養は命日とか年忌法要だけではなく、常日頃から毎日心を込めて、自宅またはお寺の御宝前で拝むようにするのが、先祖に対する弔いになる』と教えられています。

しかし、だからといって年忌法要を放っておいて良いのかというと、そうではありません。ご先祖様は年忌などの節目では、尚一層の回向供養を期待されているのです。
亡くなられた同月同日の命日を「祥月命日(しょうつきめいにち)」といい、同じ日を「月命日(つきめいにち)」と呼びます。

年忌法要は、亡くなられた翌年の祥月命日に一周忌の法要を営み、その翌年に三回忌(亡くなった年を入れて三年目の法要)を行います。六年目に七回忌、十二年目に十三回忌のように、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌、百回忌と続きます。三と七のついた年に実施されます。

お彼岸(おひがん)

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、そもそも「彼岸」とは、生きている者の住む迷いの世界「此岸(しがん)」に対して、死者が生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界のことを指し「彼岸(ひがん・彼の岸=かのきし)」というのであります。
仏教では、彼岸に渡るには六度行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六種類の修行)が必要とされています。しかし、難しい修行に耐える能力のない末法衆生はお題目を唱えるだけで六度行を行じたのと同じ果報をいただくことができるのです。

御教歌には
 かのきしにわたす御法の舟歌は
  きくもいさまし南無妙法蓮華経
とあります。

塔婆(とうば)

塔婆とは梵語でいう「ストゥーパ」の音訳で、釈尊御入滅の後、仏舎利(ご遺骨)を収め祀る塔を方々に建てて礼拝し、供養をしたのが起源です。

当宗の塔婆は法華経(法師品、特に神力品)の『起塔供養』の教えによるもので、お題目の御本尊を祀り、本仏にご供養し、その功徳を志す精霊に回向するのです。
また塔婆は人目に触れるところへ建立することに意義があり、日蓮聖人は塔婆に触れて吹いた風に当たれば魚や虫のたぐいも苦を逃れる――という意味の仰せもございます。

義天寺では、木目の大塔婆と小塔婆、紙の水塔婆を用意させていただいています。
しかし、御塔婆をあげたからといってそれだけで回向になるわけではありません。
起塔供養の本来は、仏様の徳を称えて信仰のよりどころとさせていただくものですから、戒名や名前を書いてそれでよし、というものではありません。遺族が起塔供養の功徳を故人になりかわって積み、それを故人に回し、巡らし、成仏を願うというものなのです。
仏塔や塔婆を建てる功徳が深いことは上で触れたとおりですが、たくさんの人が御題目口唱する機会が生まれるのも功徳が深い理由といえるでしょう。

御塔婆を建立するためにお寺に参詣する(参詣の功徳)、御塔婆を建立する(起塔供養の功徳)、そして御題目をお唱えすること(口唱の功徳)により、より多くの功徳を故人に回向(回し向かわしめる力:菩提回向)となるのです。
御塔婆だけを建立しても回向にはなりません。そのうえで、心を込めて御題目を唱えて初めて回向となるのです。

お看経(おかんき)

「本門八品所顕上行所伝のお題目」を口で唱え重ねることを口唱(くしょう)または、お看経(おかんき)と言います。

御法門(ごほうもん)

当宗の御法門(ごほうもん)は、形の上では他宗の説法や説教に似ていますが、内容が違います。御法門は法華経本門の教えですから「折伏(しゃくぶく)」になるのです。
折伏とは慈悲の極まったもの、すなわち人を救う慈しみと思いやりです。

御利益をいただくにはこうすることが肝心と“勧める”こと、人として信者としてこうしてはいけないと“戒める”こと、この二つを具体的に示されているのが「御法門」なのです。
御利益に直通する本門八品の教えをわかりやすく説くために、開導聖人の御教歌を拝読する形式で御法門が説かれます。

罪障(ざいしょう)

罪障(ざいしょう)は成仏の妨げとなるものです。身近なところでは御利益をいただこうとするときに障害となるものです。
この罪障は「悪い行いの記憶」であり、死んでも消えないため、前世の罪障が現世で顕れるかも知れませんし、現世で顕れなかったとしても来世で顕れるかも知れません。この罪障は「上行所伝のお題目」をお唱えすることでしか消滅することができないのです。
私たちは仏様の教えに逆らう心の罪障や、人の悪口を言ったり嘘を言ったりする口罪障を、知らず知らずのうちに積みがちですので気をつけましょう。

供養(くよう)

自分の持っているものを捧げ、自分の体でできることをさせていただくことが「供」で、これにより御宝前が荘厳され、他の方が結構にご奉公できるようになるのが「養」と、いう意味を持っています。
供養の差し上げ方にはいろいろありますが、三宝(仏様・御法・お教務様や宗門の人々)への供養が中心となります。思いを込めて、分相応にさせていただくものは皆、供養になります。

御教歌(ごきょうか)

仏様の教えをわかりやすいよう、また覚えやすいようにと開導聖人が五七五七七の短歌の形式で詠まれた和歌のことを「御教歌(ごきょうか)」と言います。信心を学ぶ御法門ではこの御教歌を主題にして、仏様の教えを説いてくださいます。

御指南(ごしなん)

開導聖人が書かれた、日常生活の中で仏様の功徳や御利益をいただく道筋を示す言葉を「御指南」といいます。また高祖聖人がお書きになったものは「御妙判(ごみょうはん)」、門祖聖人がお書きになったものは「御聖教(ごしょぎょう)」と呼んで区別しています。

御宝前(ごほうぜん)

法華経本門八品に示されたご本尊様の御前を「御宝前(ごほうぜん)」といいます。そこから転じて、『尊い宝の御本尊様をお祀りしている場所』という意味でご戒壇のことを「御宝前」という場合もあります。
また本来は場所を示す言葉なのですが、「生きてまします御宝前様」の気持ちから人格化して「御宝前様」と言われたりもします。

御供水(おこうすい)

お看経の時に御宝前にお供えをして、お題目が上がったお水のことを「御供水(おこうすい)」と言います。お題目の功徳がお水に移り、不思議な力を発揮する功徳水に変わります。本門佛立宗では御供水にまつわる御利益談がたくさんございます。

祈願(きがん)

祈願の「祈」は声を出して祈ること、「願」は心の中でお願いすることです。
祈願成就のために、迷いや疑うことなく法華経本門八品の御本尊に向かってお題目を信じ、お唱えいたします。そうすることで、経力及び諸仏諸天の力をいただき、現世安穏、後生善処の御利益をいただき、願いを叶えさせていただけるのです。

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